2024年の大河ドラマは「光る君へ」が放送されることが決定しています。
平安時代の女流歌人・紫式部を主人公に、きらびやかな平安貴族の世界を描く、壮大な歴史絵巻になるのではないでしょうか。
さて、紫式部と言えば誰もが思い浮かべるのが大長編小説「源氏物語」でしょう。
この「源氏物語」の主人公が言わずと知れた光源氏!
そして、作中のスーパースター光源氏にはモデルがいたといわれています。
今回はそのモデルの一人と言われている源融という人物と、その邸宅跡の謎を調べてみました!
光源氏のモデルは源融(みなもとのとおる)
時は平安、嵯峨天皇の第八皇子に源融(みなもとのとおる)というお方がございました。
百人一首では、河原左大臣として有名です。
この方が日本の代表的古典文学「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とされている人物です。
この源融の邸宅「河原院(かわらのいん)」も、光源氏の豪邸「六条院」のモデルであると言われております。
時代は降って現代のこの辺り。
かつては五条楽園と言われ、遊郭で賑わっておりましたが、遊郭廃止後の今では独特の建物のみを残し、その姿を飲食店やゲストハウスなど様々な形に変え、また違った町の風情を醸し出しています。
その中にひっそり散在するかつての大豪邸の跡をを訪ねてみました。
源融の人物像
源融(みなもとのとおる)弘仁十三年(822)~寛平七年(895)。
嵯峨天皇(第五十二代)第八皇子。
従一位左大臣、死後正一位。
源氏の姓を賜って臣籍に下り、位は左大臣にまで昇りましたが、天皇の子でありながら天皇にはなれなかったお方です。
光源氏も位人臣を極めましたが、天皇の子でありながら天皇にはなれませんでした。
貞観十四年(872)左大臣の頃、下位の右大臣藤原基経が時の帝、陽成天皇の摂政に任ぜられ、怒った融は左大臣を辞めて引き籠り、宇治に別邸棲霞観(せいかかん)を建て、風流三昧の日々を送ることになります。
融には一風変わった話が残っています。
仙道(仙人になるための修行)を行っている近習から、「私はもうじき仙人になれるけれど、あなたにも仙骨があるので、一緒に仙境に参りましょう。」と誘われます。
ところが融は、妻子に断ってから行くと返答します。
妻子に愛情をかけるようでは、とても仙人修行は達成出来ませんよと見限られてしまう。
融は、天皇になりそこなっただけでなく、仙人にもなりそこなったという伝説をもっているのである。
豪邸・河原院
融の邸宅「河原院」は現在の京都六条、四町四方の大邸宅。
現在の地図に当てはめると、東西は現在地から柳馬場通まで、南北は現五条通から六条通(正面通とも)までの広大な範囲に及びます。
融の建てた河原院と光源氏の豪邸六条院、場所も広さもほぼ同じ設定となっております。
邸内には陸奥国塩竃の風景を写した庭園を造営し、庭の中には湖を造り、難波の浦から海水を運ばせ塩焼きをしては、その眺めを楽しんだといいます。
現在、河原町五条の西側に「塩竃町」「本塩竃町」という町名が残るのは、このことに由来すると言われています。
そしてこの辺りを南北に走る京都で最も繁華な通りである河原町通は、この河原院の名にちなんでいると言われています。
また、河原院跡に今も残る榎の大樹は、邸内にあった森の名残と言われています。
その後の源融と河原院
栄華を極めた大豪邸「河原院」も融の死後は維持が難しくなり、受け継いだ息子の昇(のぼる)が宇多上皇に寄進して仙洞御所となりますが、度重なる鴨川の氾濫により急速に荒れ果て、幽霊屋敷の噂が出るなど没落の一途を辿りました。
現在の跡地には、榎の大樹と小さな神社がひっそりと残ります。
六条河原院の広大な跡地は、現在の枳殻邸(渉成園)が残り、宇治の別荘は平等院として残り、嵯峨の別荘「棲霞観」は嵯峨釈迦堂清凉寺として残りました。
いずれも京都を代表する名庭園として今も訪れる人々を楽しませてくれています。
源融はその嵯峨釈迦堂の一角に静かに眠っています。
アクセス
京阪電車「五条」駅から約0.2Km
市バス「河原町五条」下車
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