
携帯電話の普及により、街中のシンボルで待ち合せをするという光景がほとんどなくなりました。
かつて京都で待ち合わせと言えば必ず出てくるのが通称「土下座前」と言われるこの銅像でした。
そもそも「土下座前」とは何なのか。
そして現在では「土下座前」はどうなっているのか。
今はもう懐かしい待ち合わせのメッカ「土下座前」について深堀りしてみましょう。
土下座前とは何なのか
高山彦九郎先生 皇居望拝之像(たかやまひこくろうせんせい こうきょぼうはいのぞう)。
この仰々しいタイトルが通称「土下座前」の正式名称となります。
京阪電車「三条駅」のある交差点に、伏し拝む侍の巨大な銅像が、立派な台座に鎮座しています。
この銅像の方は、熱心な勤皇思想家であった高山彦九郎(たかやまひこくろう)。
台座に記された「高山彦九郎正之」の碑文は、あの日本海海戦の英雄、東郷平八郎の筆によるもの。

その横にあるのは「高山彦九郎先生 皇居望拝之趾」の石碑。
戦時中の金属供出で一時姿を消した銅像の跡をを示すため置かれたものだそうで、こちらは徳富蘇峰の筆です。

初めてコレを目にした人は、「なぜ土下座?」「何を拝んでいるの?」と思わずにはいられないことでしょう。
土下座ではなかった土下座前
実はこの像は土下座しているわけではなく、御所に向かって礼拝しているの姿なのです。
ここから北西あたりがちょうど京都御所にあたります。
高山彦九郎は熱心な勤皇思想家でした。
この人は関東から東海道を下って終点の三条に到着の度に、上洛前に御所に向かって拝礼をしていたという逸話の持ち主です。
この地にこんな銅像があるのは、この逸話に由来してのことだったのです。
とはいえ毎度京都に到着するなり御所に向かって伏し拝むとは、かなりの変わり者ですね。
この勤皇思想家・高山彦九郎とはどのような人物なのでしょうか。
高山彦九郎はどんな人物だったのか
高山彦九郎は延享4年5月8日(1747年6月15日)、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)に生まれています。
勤皇思想になったのは幼少期に読んだ「太平記」がきっかけと言われています。
高山家の先祖が新田氏であったという事も大きな要因だったでしょう。
学問を志し、18歳で郷里を出奔します。
故郷を捨てて京都へやってくるわけですが、時は幕末の百年前。
まだ徳川幕藩体制ガチガチの頃ですから、なかなかの覚悟といえますね。
林子平、蒲生君平と並び寛政の三奇人(奇人変人ということではなく、優れた人というニュアンス)と言われた高山彦九郎。
京都ではユニークなエピソードを残しています。
等持院の足利尊氏の墓を鞭打ち
京都にある等持院は歴代足利将軍の眠る寺院です。
この等持院の足利尊氏の墓を訪れそれに鞭を打ったというエピソードです。
足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し室町幕府を開いた人物ですから、勤皇思想家にとっては許されざる散在ということになります。
先祖である新田氏の長であった新田義貞も足利尊氏に討たれていますから、恨み骨髄といったところだったのでしょう。
吉兆の亀を発見
甲羅に毛の生えた縁起の良い亀(緑毛亀)を見つけて朝廷に献上し、時の帝に拝謁を許されたというエピソード。
よくおめでたい絵画などで描かれる鶴亀図の亀は、甲羅などに長い毛が生えた姿で描かれます。
あれは長生きの象徴である架空の亀かと思いきや、実際に「緑毛亀」と呼ばれる亀がいるらしいのです。
それを見つけて献上したという話なのですが、縁起の良い亀を引き寄せる高山彦九郎のパワーを感じさせるエピソードですね。
高山彦九郎、九州で果てる
数々の逸話を残した彦九郎のその後はどうなったか。
各地を転々と勤皇思想を説いて回っていましたが、ついに幕府に目を付けられ、久留米の知人宅で自刃。
自刃の詳細は不明ということですが、この知人にしてみたら相当に厄介な話です。
最期の時まで奇人を貫いた人生でした。
彦九郎のお墓は久留米の遍照院というお寺にあります。

かつて久留米を旅した折、ここに詣でて「あー。あの三条の土下座の人か。なぜ久留米に墓が?」と思った記憶があります。
寛政五年(1793)47歳で没。
47歳で没したにしては、あの銅像はえらく老人ではないかという疑問が湧いてきます。
これは皇居に向かって熱心に頭を垂れる姿が若者では、どこか風格が足りないなという理由で老人像になったとのこと。
モニュメントというのはイメージ重視になりがちですが、確かに老人の方が味が出ていますね。
土下座前は現在どうなっているのか
この銅像があるのは京都市の中心部、鴨川に架かる三条大橋の東詰め辺りです。
京都市内の最大の繁華街、河原町や祇園、先斗町などに近く、大阪との大動脈である京阪本線三条京阪駅前ということで、一日中人々の往来の絶えない場所といえるでしょう。
かつてこの銅像はその存在感と立地から、待ち合わせのメッカとして夕刻ともなれば多くの人々でにぎわっていました。
時代も変わり、携帯電話・スマートフォンなどが当たり前になった現在、待ち合わせは場所を決めなくても可能になりました。
では土下座前は忘れ去られたのかというと実はそうでもありません。
現在でも土下座前には多くの人が待ち合わせをしていたりします。
土下座前という通称もいまだに受け継がれています。
繁華街に近い。
拠点となる三条京阪駅前である。
目印としてインパクトが大きい。
このような理由から、いまだにこの像の前で待ち合わせをする人々は多いのでしょう。
まるで土下座をしているようなこの銅像。
何か特別なパワーを感じてしまうからかもしれませんね。
まとめ
高山彦九郎の戒名は「松陰以白居士」。
ピンとくるかと思いますが、幕末の勤皇思想家、吉田松陰はこの戒名から名を取ったそうです。
吉田松陰の松下村塾からは、久坂玄瑞や高杉晋作など、勤皇討幕の志士が数多く輩出されました。
彦九郎本人は早すぎた勤皇思想でしたが、後の維新回転の原動力となったことは間違いありませんね。
時代を経て今なお待ち合わせのメッカである土下座前。
渋い老人の像ですが、なかなかドラマチックな場所ではないでしょうか。
最後までお読みいただき有難うございます。

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