越中井~細川ガラシャ最期の地に涙する

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細川ガラシャ。

日本史などでたまに見かけるこの変わった名前は、戦国武将細川忠興夫人たま(たまこ)の事。

熱心なキリシタンだった女性で、洗礼名がこのガラシャ(恩恵の意)なのですね。

ガラシャ夫人最期の地である史跡「越中井」、大阪城から近い古い街角に静かに佇んでおります。

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越中井とは

この辺り、法円坂、森之宮、玉造の各一部を越中町と古くは呼んでおりました。

越中という名は、細川越中守忠興公に由来しております。

この付近が細川家大阪屋敷のあった辺りで、この井戸はその台所にあったものだということです。

慶長5年(1600)ここで壮絶な最期を遂げたのが忠興夫人の細川ガラシャ。

昭和9年(1934)その徳を偲び顕彰碑を建立したということです。

表題の文字は筆鋒鋭い明治のジャーナリスト徳富蘇峰。

側面説明は京都帝大文学部長・新村出先生。

細川ガラシャってどんな人

案内板写真より抜粋

細川ガラシャは、永禄6年(1563)越前国に生まれます。

父親は織田信長を本能寺で討った、あの明智光秀です。

天正6年(1578)織田信長の提案で、細川藤孝(幽斎)の嫡男、忠興に嫁ぎます。

忠興との間に、三男三女をもうけております。

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本能寺の変

本能寺の変で織田信長が討たれると、謀反人の娘という立場になってしまいます。

父・明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ、敗走の末命を落とします。

この辺りは、日本史や時代劇では必ず出てくるところですから、知らない人はあまりいないでしょう。

この時は丹後国、味土野(みどの)というところに忠興によって幽閉されていました。

普通は離縁となると里へ返されますが、それをしなかったのは様々な理由もあるでしょうが、夫婦仲が睦まじかったということが大きいのではないでしょうか。

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キリシタン洗礼

天正12年(1584)天下を取った秀吉のとりなしで、大坂の細川屋敷へ戻されています。

この当時は舅の藤孝(幽斎)と共に禅宗に帰依しておりましたが、忠興からカトリックの話を聞くと、その教えに心惹かれていきます。

忠興にカトリックの話を聞かせたのは、かのキリシタン大名・高山右近でした。

そこから数年は改宗の志はあれどなかなかその機会に恵まれず、侍女を通じた教会とのやり取りで信仰を深めていきます。

この間、夫・忠興は秀吉の九州征伐に従って留守にしており、妻の信仰を知りません。

折しも九州にいる秀吉からバテレン追放令が出されます。

これを知るや、大坂に滞在中のイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいにより、すでに洗礼を受けていた侍女の清原マリアから自邸でひそかに洗礼を受けます。

ここに細川ガラシャ誕生となるわけです。

九州から帰国した忠興は激怒。

秀吉がキリシタンを認めていませんから、配下の忠興の立場としては、かなりの窮状であることは察せられます。

洗礼撤回を求める忠興を向こうに、頑として聞き入れないガラシャ。

ついに忠興、黙認状態になります。

この辺りから夫婦間にもすきま風が吹き始めます。

側室を五人にしてやると息巻く忠興。

ガラシャへの風当たりがきつくなる夫に、宣教師に「夫と別れたい」と告白するガラシャ。

カトリックは離婚を禁じておりますから、宣教師からは逆境に立ち向かってこその信仰と諭されます。

本気のキリスト教は厳しいですね。

ガラシャ壮絶な最期

慶長5年(1600)天下分け目の関ケ原の戦いの年です。

石田三成に呼応して挙兵した上杉景勝を討つため、徳川家康が東へ向かいます。

忠興もこれに従い出陣します。

忠興は日頃から出陣に際し、「もし自分の不在時に妻の名誉に危険が及んだ時は、まず妻を害して全員切腹して果てよ。」と家臣に命じるのが常だったそうです。

名門細川家、恐るべき家風ですね。

西軍の大将である石田三成は、豊臣恩顧の武将の妻子を人質に取ろうと動いています。

当時、大阪玉造の細川屋敷にガラシャはいましたが、三成の申し出を拒絶。

翌日取り囲まれた屋敷から、邸内の婦人、侍女を全員外へ出し、家老の小笠原秀清(少斎)に自分の胸を突かせて落命します。

キリスト教では自ら命を絶つ行為を禁じているのですね。

その後、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように、屋敷に爆薬を仕掛けて火を放ち自刃。

なんとも壮絶な最期を遂げた細川ガラシャの辞世の句。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

ガラシャの死後、オルガンティノ神父が焼け跡から骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬ります。

忠興はガラシャを悼み、オルガンティノにガラシャの教会葬を依頼して葬儀にも参列。

遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬します。

なんだかんだで夫婦仲は良かったのですね。

法名は秀林院殿華屋宗玉大姉。

今この越中井に立つと、そんな騒動があったとは思えぬ静けさに包まれます。

ここからほど近くに、大阪カテドラル聖マリア大聖堂という大きな教会が建っています。

ここには日本画の大家・堂本印象画伯による、高山右近と細川ガラシャを配した大壁画がかかっております。

アクセス

地下鉄中央線・環状線「森ノ宮」下車 南西約500m

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